グイノ神父の説教
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年間第13主日 A年 2020年6月28日 グイノ・ジェラール神父
2列王記 4,8-11、14-16 ローマ 6,3-4、8-11 マタイ10,37-42
自分を大切にもてなしてくれた人に子供の誕生の約束を告げることによって、預言者エリシャが奉仕している神は「命の神」であることを現しました。イエスが復活であり命であるからこそ、キリストにおける信仰は私たちを「生きている者」としたことを、聖パウロはローマの教会への手紙を通して思い起こさせます。さらに今日の福音は、キリストにしっかり結ばれて生きる大切さを要求します。それは小さな物事を行うこと、例えば冷たい水一杯を飲ますことでさえ、イエスと繋がっていて愛の完成にまで導くのです。
福音が述べているイエスの言葉は実現しにくい、並外れたことだと私たちは思うかも知れません。たとえば、「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない」あるいは「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない」、「自分の命を得ようとする者は、それを失う」など。確かに、愛に生きることは難しく煩わしい選びを要求します。しかし、神の生き方を自分自身の生き方にすることをイエスは私たちに求めています。この生き方はローマの信徒への手紙の中に発見できます。「あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい」と。洗礼を受けた私たちは、確かに「新しい被造物、新しい人」となりました。心と魂と力を尽くして、他の人よりも神を愛することによって私たちは他の人々に示す愛に揺るぎない土台を与えるのです。
「わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」とイエスは断言しました。主イエスのために命を失うとは、イエスに自分の命を与えることです。イエスは命であるからこそ、彼に与えるものはすべて必ず百倍の実を結ぶ小さな種となります。
そのためイエスの並外れた言葉は、私たちに単純な行いを果たすよう誘っています。「人を歓迎すること」や「水一杯を与えること」が大切だとイエスは語りました。列王記のシュネムの婦人が、預言者エリシャを誘ったのは「自分の家に留まり、一緒に食事を分かち合うためでした」(参照:2列王記4,8)。このもてなしの単純な行いは、神の祝福を引き寄せ、世界を救い、美しくします。というのも、愛で満たされた行いは永遠の値打ちを持っているからです。
「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである」(参照:マタイ10,40)、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(参照:マタイ25,40)など、分かり易いこれらの言葉はイエスの教えを深く理解するための大切なカギです。
愛があるところ、そこにイエスはおられます。「Ubi caritas et Amor、Deus ibi est」。 審判の日に、イエスは私たちの祈り方や福音宣教について尋ねたりはしません。「わたしが頼んだ通りに、あなたの隣人を愛することで私を愛しましたか」と言うことについて、イエスは尋ねるでしょう。アーメン。
年間第14主日 A 年 2020年7月5日 グイノ・ジェラール神父
ザカリア 9,9-10 ローマ 8,9、11-13 マタイ 11,25-30
イエスは預言者ザカリアが告げた「柔和で謙遜な救い主」です。しかし同時にイエスは父なる「神からすべてを任せられている方」(参照:マタイ11,27)です。イエスの支配は宇宙万物に及ぶ(参照:ザカリア9,11)と預言者ザカリアは思い起こさせます。今日イエスは私たちを、父なる神にささげられた祈りの神秘性に導きます。この祈りは父なる神が行われることを感謝する祈りです。
まず、イエスは自分の喜びの声をあげます。何でも知っていると思い込んでいる律法学者たちやファリザイ派の人々や大祭司たちはイエスを理解出来ずに、いつもイエスを批判したり、罠をかけたりします。イエスは一つの言葉で、そして一つの動作で彼らが信じるように導きます。イエスは彼らを簡単に滅ぼすことが出来ますが、それをしませんでした。復讐をせずに、その人たちが自分の教えや救いを拒否してもそれをイエスは承諾します。なぜなら、信仰は神の恵みだとイエスは知っているからです。謙遜に、自然にイエスが宣言する教えに心を開く人々だけに父なる神はこの貴重な信仰の恵みを与えられます。
「父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません」とイエスは断言します。知っていると思い込んでいる人は、イエスが啓示したいことを受けることができません。神の神秘を知らなくてもいいと思っている人も、自分の信仰で満足するでしょうが、神に対しても自分自身に対してもその人は見知らぬ人となってしまいます。神をより深く知りたいと探し求めることによってしか、人の人生の神秘性は示されません。というのも、人生の神秘性については啓示されていないからです。「小さい人」即ちイエスに呼ばれる人たちは、子供がするように父なる神に絶えずすべてを求めることが必要だと解っている人たちです。
神と一致して、「神からすべてを任されている」にもかかわらず、イエスはいつも神にすべてを願う人です。謙遜な救い主としてイエスは柔和のうちに自分の使命を行います。失敗や賢い人々の批判に直面しても、イエスの口から不満や不平は出てきません。むしろ、ほんの少しの人が自分を信じるようになったので、イエスは感謝の内に自分の喜びを表します。このようなイエスの態度から、正しい祈り方を学んではどうでしょうか。失敗や無理解や批判が私たちを襲うたびに、神に苦情と嘆きを聞かせるよりも、自分の人生と日常生活にある良いことについて神に感謝する方がはるかに良いのです。
「神の恵みによって、わたしは今のわたしになりました」(参照:1コリント15,10)と聖パウロは言いました。失敗、批判、疑い、成功が有っても無くても、自分のためや周りにいる人々のために私たちは「神の賜物」であり、「神の愛の証拠」です。イエスご自身が私たちに与えられた神の愛の賜物だからこそ、彼は絶えず父なる神に感謝しています。イエスは神のそばで感謝と賛美を捧げることによって憩いを見つけます。
確かに、この祈り方は批判や失敗を耐え忍ぶために必要な安らぎと慰めを与えます。神に感謝することは「神が私たちを愛していることを」信じることであり、またすべての困難を乗り越えるために神から必要な力と忍耐を受けたいことを示すことです。
感謝することとは、イエスのように柔和で謙遜な人となることを学ぶことです。感謝しながらイエスと共に日常生活の軛を負うこと、自分の心の中に聖霊が自由に働くように承諾すること、キリストのように柔和で謙遜になることは「大きな喜びの道」です。この喜びは私たちを安全に愛の完成まで導くのです。アーメン。
年間第15主日 A年 2020年7月12日 グイノ・ジェラール神父
イザヤ 55,10-11 ローマ 8,18-23 マタイ13,1-23
イエスを見かけると同時に話を聞くために彼のそばに大勢の群衆が集まりました。それは「散らされている神の子たちを一つに集めるために」(参照:ヨハネ11,52)イエスが遣わされているからです。自分のそばに集まった群衆を見て、きっとイエスは世の終わりに行われる収穫の時を見たに違いありません。その時、イエスの言葉が宇宙万物のすべてのものを集めるでしょう。
神の言葉は命の泉であり、豊かな収穫の約束です。いのちを与え、成長させ、豊かに実らせるイエスこそが「肉になった」神の言葉です。人はそれを受けても、受けなくても、神の言葉は必ず言われたこと、委ねられた使命を実現すると預言者イザヤは思い起こさせました。確かに人間の心は閉じ込もる事や神以外の物事に興味を示すので、神の言葉の使命を妨げるのです。ところがある人に断われたとしても、神の言葉は失われることはないので、必ず、誰か他の人に与えられています。それは神が望まれたことは必ず実現されるからです。
使徒聖パウロはそれをよく理解していました。自分の信仰の証しを拒んだ人々に、聖パウロは次のように言いました。「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く。主はわたしたちにこう命じておられるからです」(使徒 13,46-47)と。
例え話の畑の土に蒔かれた種は神の言葉です。この種は、命と幸せと考えられないほどの力で満ちています。よい土に落ちるかどうかは大切な問題です。そういう訳で、私たちは自分について正直で明白な眼差しを持つことが必要です。というのは、いくら毎週日曜日にミサに参加し、聖体拝領を繰り返しても私たちは霊的にはなかなか進歩しません。理由は様々あります。というのも、私たちは霊的に成長することを第1には望んでいません。しばしば気楽でのんきに生きている私たちは、神の言葉を聞いても心に留めず、ゆっくり味わうことなどしません。私たちは忍耐力がなく変わりやすく、熱情から落胆へと簡単に変わってしまいますし、また昔学んだカテキズムと教会の教えで満足しています。さらに日常生活の問題と困難のせいで私たちは悩み事や心配事の遥か後に、神を置く傾きを持っています。気楽でのんきな生き方、移り気な存在、心配と不信のために、私たちは信仰を育てること、そして霊的に豊かになることができません。
預言者イザヤの教えによると「神の言葉は地球を豊かに実らせ、潤す恵みの雨です。」そうであれば、喜びをもって神の言葉を受け止めましょう。神の言葉が私たちの心の砂漠を潤し、神が望む収穫を実らせますように。神は皆に対して同じ恵みを与えます。神はご自分の言葉を受け入れる人々と、受け入れない、あるいは受け入れたくない人々の間に戸を建てられません。神は人を信じていますので、皆に豊かに、分け隔てなく与える方です。神の言葉は人を潤し、渇きを癒し、心の荒れ地を水で潤し、命を豊かにします。
「わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である。」(参照:ルカ22,27)とイエスは言いました。神の言葉は人に奉仕し世話をします。神の言葉は、信心深い人々やエリートの人々だけに与えられるものではありません。神の言葉は、無償ですべての人に奉仕するため、また成長させるため、そして聖化するために与えられています。ですから、謙遜に私たちの世話する神の言葉に対して飢えと渇きを持つようにしましょう。また、神のみ言葉であるイエスを前よりももっと良く知るように、自分の人生の中ですぐに見つけることが出来るように努めましょう。そして私たちを豊かにし、救い、私たちに良い実を結ばせる神の愛と言葉に、絶えず感謝しましょう。「幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である」(参照:ルカ11,28)。アーメン。
年間第16主日 A年 2020年7月19日 グイノ・ジェラール神父
知恵の書 12,13、16-19 ローマ 8,26-27 マタイ13,24-43
世界中どこにでも、教会の中にさえ悪はあります。私たちがもっと良い世界、汚れのない、非の打ち所がない教会を望んでも、善と悪、良い麦と毒麦を中々分離できません。悪の問題に対して、イエスは「忍耐」を勧めています。善と悪を区別するのは私たちの役割ではありません。決められた時に神ご自身がこの仕事を行われるからです。
完全に熟した収穫である愛の完成に満たされた天の国を見るのが、神はまちどおしくて仕方ありません。しかし罪のせいで弱くなった世界に示される慈しみによって神は忍耐強く待っておられます。知恵の書が教えている通り、全能の神は「寛容をもって裁き、大いなる慈悲をもってわたしたちを治められる」(参照:知恵の書12,18)。イエスは律法学者やファリザイ派の人々の振る舞いの真似をしませんでした。彼らは正しい人と罪びと、元気な人と病人、清いものと汚れたものを分離し区別します。反対に、イエスは罪びとたちと病人たちに自分の愛する心を示し、彼らを差別せずに親切に迎えました。しかし、その事は律法学者やファリザイ派の人々にショックを与え彼らには躓きとなりました。
父なる神と同じように、忍耐強く慎重なイエスは分離や区別をしません、絶えず善と悪が互いに戦いあう一人ひとりの人の心がイエスは大好きです。イエスが神の国について語る時は、決して敵との戦いについて話すのではなく、むしろ成長について話します。神の国の成長は無限ではなく、いつか終わります。神の国が完成される時、必要な選別が始まるでしょう。この時を待ち望みながら、神を真似て私たちも希望で満たされた忍耐強い人になりましょう。なぜなら「聖霊は弱いわたしたちを助けてくださる」(参照 :ローマ8,26)ことを私たちは知っているからです。
まことの戦いは私たちの回心です。つまり私たちは「悪に負けることなく、善をもって悪に勝つ」(参照:12,21)こと、そして条件や偏見なしに絶えず赦すことです。私たちの役割は粉に混ぜたパン種であること、即ち目立たずにキリストからいただいた恵みを世界の人々に伝えることです。言い換えれば、この世にいて、キリストと同様に謙遜に神の祝福と救いに人々を与からせることです。
この世を変化させるものを、私たちの目で見ることができません。麦の種やからし種は土の中に隠されています、パン種は粉の中に混ぜられています。私たちも、謙遜に、目立たないで正しく行うように召されています。聖パウロが教えたように「愛は自慢せず、高慢になりません…自分の利益を求めず…すべてを我慢し、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます」(参照:1コリント13,4-7)と。
ですから、あらゆる種類の悪から私たちを守り、救う神の眼差しの下に謙遜で、揺るぎない信頼をもって留まりましょう。「人の心を見抜く」神は、私たちの心に「神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださる霊」(参照:ローマ8,27)を注ぎます。私たちをそれほどまでに愛する神に、喜びに溢れ、揺るぎない希望をいだいて、感謝と賛美を捧げることは相応しいことではないでしょうか。アーメン。
年間第17主日A年 2020年7月26日 グイノ・ジェラール神父
1列王記 3,5、7-12 ローマ8,28-30 マタイ13,44-52
今日、私たちは知恵を持つ人となるように召されています。これこそ若いソロモン王が神に願った恵みです。また、イエスのたとえ話は、わたしたちが宝物である知恵を捜し求めるように教えています。さらに、神ご自身が私たちにこの知恵を指し示していることを聖パウロはローマの教会の手紙を通して思い起こさせます。
知恵を受け止めるには、信仰の内に目覚めている人にならなければなりません。私たちは幅、高さ、奥行きの3通りの大きさの指標を持つ「三次元空間の世界」に住んでいます。人間の生まれつき持っている人間性も「物理的、精神的、霊的の3つの三次元空間をもっています。キリスト者はこの自然な三次元に神が与えるもう一つの次元を加えます。非常に神秘的なこの次元は永遠で、時間の外側にあって、またたえず互いに入り組み合う「内面性と外面性」と呼ばれています。イエスは度々この次元を説明しようとしました。例えば「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい」(参照:ヨハネ14, 11)、「私の内にとどまっていなさい。そうすれば、わたしもあなたがたのうちにとどまる」(参照:ヨハネ:5, 4フランシスコ会訳)、「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む」(参照:ヨハネ14, 23)など。この第4次元区間をよく理解した聖パウロは「わたしにとって、生きるとはキリストです」(参照:フィリピ1, 20)と宣言しました。
キリストにおける私たちの生き方は、この世の考え方とは矛盾しています。なぜなら、神は高ぶる人を低くし、へりくだる人を高められるからです」(参照:ルカ14, 11)。そう言うわけで、聖人のレベルまで昇りたいと思っているキリスト者は、謙遜に最低のレベルまで低くなる必要があります。また今日のたとえ話が教えている通り、人が自分のすべてを捨て、また貧しい人に与えることによって、大金持ちになります。(参照:マタイ11,21、ルカ14,11)。「キリストと共に神の内に隠されている私たちの人生」(参照:コロサイ3,3)は、他の人に向けての熱心な福音宣教や私たちの霊的な生き方を通して現れるはずです。イエスはこれをはっきりと忠告しました。「あなたがたが他人にしたこと、あるいはしなかったことそれは、私にしたことあるいはしなかったことだ」(参照: マタイ25,31-36)と。
知恵のある人は自分のなかに、霊的な生き方と外面的な生き方が一致する神の次元を持っています。このことにより神が人の内に留まり、人もまた神の内に留まります。知恵は、行うこと、赦すこと、慰めること、手伝うこと、そして愛することを教えます。それは神ご自身が行い、赦し、慰め、手伝い、愛すると同じことです。残念なことに、人間の弱さが、神が人間の魂に与えたこの第4の次元を忘れてしまいます。限界のある私たちは、神の深みを極めるよりも、物事の表面的なことにとらわれてしまいます。聖パウロはこの事を上手に言いました。「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」(参照ローマ7, 19)と。
ですから、聖パウロや若いソロモン王に倣って、信仰の内に目覚めているようにしましょう。私たちは世の中に住んでいても、永遠にキリストと結ばれているので、この世に属していない、 と教えたイエスの言葉を思い起こしましょう(参照:ヨハネ15, 15-19)。 私たち一人ひとりの心の奥深くに神は貴重な真珠と考えられないほど高価な宝物を隠しました。ですから、それを見つけるためにすべてを尽くし、そして見つけるなら、神の栄光と世の救いのために上手にそれを使いましょう。
聖霊がわたしたちに熱心に自分の命の奥底に留まる神とその宝物を探す喜びのエネルギーを与えるように願いましょう。そうすれば、私たちも聖パウロのように宣言するでしょう。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(参照:ガラテ2,20)と。また「わたしにとって、生きるとはキリストです」(参照:フィリピ1, 20)と。アーメン。
年間第18主日 A年 2020年8月2日 グイノ・ジェラール神父
イザヤ 55,1-3 ロ-マ 8,35-37,39 マタイ14,13-21
砂漠という場所は、降雨が極端に少なく植物が何も生えない砂や岩石の多い土地です。同じように、孤独は人から離れている状態で寂しさと人間関係のない苦しみに満ちた状態にある一種の砂漠です。今日、イエスはわざと舟に乗って、孤独を選び、人里離れた所に退かれました。ところがこの荒れた地はあっという間に新たにされ、命が溢れる、分かち合いの場所となるのです。
群衆はイエスのしたいことを理解したので、すでにこの人里離れた所で彼を待っています。大勢の人々との思いがけない出会いは、イエスに自分の使命の目的を思い起こさせます。イエスが来たのは人々を癒し、救い、満たすためです。ただ今回は、今までと違って、イエスは群衆に向かって教えず、ただ病人を癒されるだけでした。しかしこの大勢の人々が集まる人里離れた場所はイエスが自分自身を豊かに与える場所となりました。パンの増加の出来事は、その事実を目に見える具体的な形に現しました。
夕暮れになったので、弟子たちは皆を隣の村に食べ物を買いに行くように解散させようと考えました。しかしイエスはこの考えを承諾しませんでした。きっとイエスは群衆を見て、預言者イザヤのこの言葉を思い出したのでしょう。「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。金を持たない者も来るがよい…食べに来て…良いものを食べて…あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう」。群衆を解散させるよりも、イエスはほかの解決方法を提案します。弟子たちが持ってきた五つのパンと二匹の魚を群衆と共に分かち合うように勧めました。「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」とイエスは願います。イエスの祝福の祈りが、弟子たちの小さな供え物と結ばれると不思議な奇跡が起きました。大勢の人が満腹できただけでなく、まだ残りがたくさんありました。寂しい人里離れた所は、分かち合いの場、満腹する場、溢れるほどの豊かさを味わう場所となりました。非常に驚いた福音史家はこの出来事を6回も伝えました。
砂漠のつる植物は、じぶんが巻き付くことができる木を見つけない時は、神に巻き付く」と言うアフリカのことわざがあります。イエスと彼を囲んでいる大勢の人々と弟子たちのお陰で、神はご自分の愛と慈しみを示すことができました。昔から神は、渇いて飢えている人々を満たすのです(参照:創世記21,14-19 、出エジプト記16,11-15 、 列王記上17,2-6、列王記下4,42-44、ヨハネ21,9-10)。砂漠のつる植物を真似て私たちも自分を支えるものがないのであれば、神に巻き付くことを学びましょう。つまり神に希望と信頼を置くことを学びましょう。
「何も主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」と聖パウロは証します。ご自分のみ言葉と命のパンで神が私たちを養う限り、私たちは安全に住み、乏しいことがありません。これについてダビデの詩編が証しています。「主は我らの牧者、私には何も欠けることがない」(参照:詩編23,1)と。み言葉であり、命のパンであるイエス・キリストを通して、神は私たちの心の飢えと渇きを癒すのです。同時に、神は人がお互いに世話をし合うために私たちを遣わします。聖パウロがフィリピのキリスト者に勧めた言葉をイエスご自身が今私たちに繰り返します。「わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます」(参照:フィリピ4,9)と。
イエスは私たちの飢えを満たし、私たちの渇きを癒しますが、イエス自身も私たちの友情に飢え乾いています。ですから、どんなに少なくても、私たちが与えることのできるものを主イエスに差し上げましょう。必ず神の愛はこの素朴な供え物を分かち合い、あり余るほど豊かなものへと変化させて下さいますから。アーメン。
年間第19主日 A年 2020年8月9日 グイノ・ジェラール神父
1列王 19,9、11-13 ローマ 9,1-5 マタイ 14,22-33
恐怖と疑いは、度々信仰生活と隣人愛を妨害します。恐怖と疑いは、マヒの状態に陥らせると同時に神のすぐそばにいることを忘れさせてしまいます。しかし神は「インマヌエル」です。つまり「私たちと共にいる神です」。毎日、いつも、世の終わりまで、そして永遠に「主を畏れる人の近くに救いがある」と詩編85,10は思い起こさせます。
神はまた創造された物の主であり、この世を傷付ける破壊力を支配できるお方です。神は嵐や暴風に命令を出し、今日の福音が語ったように湖の上を歩きます。ご自分のすぐそばで一緒に歩くようにと、イエスは私たち一人ひとりを招いています。「私の傍に来なさい。安心しなさい。風と波を恐れてはいけません。あなたの歩みを支え、あなたの救いのために私はあなたと共にいる」とイエスは励まします。枝がぶどうの木にしっかりと結ばれているのと同じように、キリストに結ばれている人は恐れることが何もありません。「わたしの魂はあなたに付き従い、あなたの右の御手でわたしを支えてくださいます」と詩編63,9は思い起こさせます。
神に結ばれた人は そよ風のささやかな音の中、あるいは心の静けさの中、更には荒れ狂う暴風雨の中にでも神の現存を見つけるのです。神の律法と遣わされた救い主を拒んでいるイスラエル人の冷たい態度を見て落胆している預言者エリヤと聖パウロは祈りの内に、すぐそばにおられる神の現存と慰めを味わうことができました。ペトロも襲ってきた恐れにもかかわらず、主のそばで湖の上を歩くことが出来るようにイエスに願いました。確かに、信じることは日常生活の逆巻く激しい波の上を歩くことであり、暴風を耐え忍びながらイエスが導く安全なところまで、信頼して一緒に歩き続けることです。
私たちは皆、恐怖と疑いの間で悩み、たとえ信頼を示しても、この信頼が実はその中に恐れの印を持っています。聖ペトロは今日、それをよく示しました。というのは、ペトロがイエスに示そうとした信頼と愛は、強い風と湖の波であっという間に吹き飛ばされました。ペトロは湖に沈みました。幸いなことに、イエスは手を差し出して、彼を助けました。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」とイエスは尋ねました。この質問は、いつもひどい苦難と試練を経験する人々に与えられています。
ですから、絶望や落胆や恐怖に沈む前に、私たちも聖ペトロと共に主に向かって「主よ、助けてください」と叫びましょう。この叫びは貴重な祈りです。神に向かって叫ぶことは、神に信頼を示すことであり、そして神だけが恐怖と疑いから私たちを救うことが出来ることを証しすることです。信仰を込めて叫ぶことは、それはただ自分の力だけで戦うことを辞めることです。信仰の叫びは、自分の問題と苦難に沈むことのないように、イエスをずっとしっかりと見ることを教えます。信仰を込めて叫ぶことは、結局イエスの後に行くためにすべてを捨てることです。自分の恐怖、疑い、あるいは自分が信じていたものさえも。(参照:マタイ4,20 、ルカ5,11)
静まった湖の物語は、イエスのすべての弟子が出会う嵐を前もって示しています。神は決して私たちの試練を消しません。しかし、必ず傍に留まることをこの物語は理解させます。様々な試練を超えて、神は信仰の安全な湖岸に導きます。
アビラの聖テレサは次のように言う習慣がありました。「Teresa sola no es nada,con Jesus es todo 」「私は一人では何もできません。イエスと共にすべてが可能となります」。イエスはすでに同じことを言いました。「わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」(参照:ヨハネ15,5)。イエスは私たちを愛し、一緒に留まっておられます。もし信頼をもってイエスご自身を私たちの人生の支えとするなら、その時イエスはとても喜んでおられます。ですから、疑いと恐怖を持っていても、主に揺るぎない信頼を示しましょう。 アーメン。
年間第20主日+マリアの被昇天 A 年 2020年8月16日 グイノ・ジェラール神父
イザヤ 56,1、6-7 ローマ 11,13-15、29-32 マタイ15,21-28
被昇天の出来事によってマリアは、神の栄光と神の満ち溢れる愛に入りました。天国で恵みに満ちているマリアは、地上に残っている自分の子供である私たちに慈しみの眼差しをずっと注いでいます。確かに、すべての天使と聖人たちと声を合わせて、マリアは神の前で私たちのために執り成しています。預言者イザヤが告げた通りに、「聖霊の神殿」であるマリアは「神の家」・「すべての民にとって祈りの家」と呼ばれるに相応しいです。「天の門」とも呼ばれているマリアは、自分の絶え間ない祈りによって私たちを父なる神の方へ引き寄せます。
マリアは今日の福音のカナンの女によく似ています。マリアの「信仰は立派」なのでイエスから何でも得ることができます。イエスは懇願するマリアに「あなたの願いどおりになるように」と答えることしかできません。神がすべての人を救いたいことをマリアはよく知っているので、救いの業の実現のために熱心に協力します。マリアは私たちの代わりに神に向かって、カナンの女の言葉を叫びます。「主よ、わたしを憐れんでください。世界の人々が悪霊にひどく苦しんでいます。主よ、どうかお助けください」と。
主の謙遜なはしためであるマリアは、神からすべての恵みを受けとります。しかしマリアは「天の后」でもあります。天使とすべての聖人の女王ですが、マリアは何よりもまず私たちの母です。幼いイエスの聖テレジアが書いた通り「マリアは女王よりも母です」。心の傷の多いマリアは、罪と悪が自分の子供たちを神から離れさせることに耐えられません。そう言うわけで、私たちが死ぬ日まで、即ちマリアの傍に行く日まで、母マリアはずっと私たちのために祈り、私たちを守ろうとします。
母マリアは祈ることによって、私たちのために神の慈しみを受け止めます。この慈しみについて、聖パウロは今日のローマの信徒への手紙で語りました。「神は、すべての人を憐れむ」と。神の平和が私たちの内に留まり、そして聖霊が私たちの心に住まわれるように、天の栄光の内にあってマリアは母の心をもって私たちを見守っています。なぜなら、信仰によって私たちは「聖霊の神殿」・「すべての民にとって祈りの家」となったからです。言い換えれば、私たちも母マリアと主イエスと共に、世の救いに心を配らなければなりません。
毎朝、教会の祈りを始める度に、司祭や修道者たちは「神よ、わたしを力づけ、いそいで助けに来てください」と言います。そう言って、彼らは福音のカナンの女の叫びを繰り返します。この懇願の叫びを通して、司祭や修道者たちは自分の困難や心配を忘れ、神に預けて、全人類の叫び声となって、特に世界の人々のニーズのために神の前で執り成す勤めがあることを思い起こします。そういう訳で、詩編や祈りの「わたし」という言葉が瞬く間に「私たち」に変化し、すべての人に結ばれています。カナンの女は「主よ、わたしの娘を憐れんでください」とは言っていません。「主よ、わたしを憐れんでください」と叫びました。神に叫びながら、世界の人々の苦難と苦しみを自分個人の苦難と苦しみとすることこそが、神の限りのない慈しみに道を開くのです。
世界の困難と惨めさの中に陥っている私たちは、天国の栄光にいる母マリアの祈りに自分たちの祈りを一致させましょう。神が早めに憐れみと慈しみを私たちに下さり、愛の完成に導いて下さいますように。母マリアに倣って、私たちも「地上のすべての民にとって祈りの家」・「聖霊の神殿」になりましょう。アーメン。
年間第21主日 A 年 2020年8月23日 グイノ・ジェラール神父
イザヤ22,19-23 ローマ11,33-36 マタイ16,13-20
今日は、イエスとペトロそして教会について少し考えてみたいと思います。イエスは自分自身についての人々の考えや伝えられていることを弟子たちの口から聞いたので、彼らに大切な質問をします。「あなた方はわたしを何者だと言うのか」と。私たちがこの質問に答えることは簡単ではありません。なぜなら世間の人々が言うことを繰り返すのでは、役に立たないからです。質問に答えるためには、自分の体験に基づいて自分自身がどのように思っているのかを考えることが必要ですから。例えば、イエスとの出会いの体験、今まで受けた恵み、神の眼差しの下で耐え忍んだ試練などから自分の答えを出す必要があります。正しく答えることができるように、ちょうどペトロに対してなさったように、神ご自身が私たちを助けに来られます。聖ペトロは叫びました「あなたはメシア、いける神の子です」と。聖トマスは「私の主、わたしの神」と宣言しました。聖パウロは「私にとって生きるのはキリストです」と証ししました。自分個人の正しい答えを発言するために、神が私たちの助けとなることを固く信じましょう。
父なる神の光を受けたペトロは、自分に対してイエスは何者で誰であるかを教えました。今度はイエスがペトロは誰であるかを教えています。先ずペトロはイエスの弟子です。そしてペトロはキリストの教会を支える揺るぎない岩として定められています。そう言う理由で信頼をもってイエスはペトロにご自分の教会のカギを委ねます。しかしペトロ自身が「鍵なる人物」、つまり「key person(キーパルソン)」です。キリストの復活ののち、ペトロは自分の前で牢の戸が自動的に開くのを、何回も見ることになりました(参照:使徒5,19、12,10)。さらに、ペトロはイエスから「つなぐこと」と「解くこと」の責任を受けます。それはちょうど昔エルアキム(参照:イザヤ22,19)が 神から同じ責任を受けたように。この務めはまた教会の責任でもあります。
このような出来事を通してイエスは教会の特徴を啓示しました。教会というのは、ペトロの宣言を自分の宣言とする人々の集まりです。「あなたはメシア、いける神の子です」と宣言する人々です。救い主・あがない主としてイエスを認める人々は、キリストの教会であり、洗礼を受けていても、受けていなくても「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです」(参照:ローマ10,9)と、聖パウロは保証します。教会はペトロ自身のイメージとよく似ています。信仰の内に強くても、肉の内には弱い罪びとたちの集まりなので教会は倒れやすいですが、同時に何度も立ち上がり回心し続けます。聖霊に支えられながら、イエスに目を注ぎつつも聖性の方へと進むために苦労しています。
教会は私たちの母でもあります。教会を愛すること、そして必要であれば教会を守ることも私たちは学ばなければなりません。ペトロは扉を開ける者ですから、ペトロの上に建てられた教会も大勢の人に神への扉を大きく開ける責任を持っています。教会は神の神秘が理解されるように人々の知恵と理解を照らす使命を受けています。また神の慈しみをはっきりと全人類に示す義務を果たさなければなりません。更に教会は、私たちの信仰を支え養うための偉大な希望となり、神の赦しの印となるはずです。
私たちはこのような教会のメンバーですから、絶えず三位一体の神の愛と慈しみに自分の心を開く必要があります。それは恐れずに、救い主であるイエス・キリストにおける私たちの信仰と希望を宣言するためです。私たちもペトロと同じように、キリストの教会の救いの扉を開く大切なカギですから。アーメン。
年間第22主日 A年 2020年8月30日 グイノ・ジェラール神父
エレミヤ20,7-9 ローマ12,1-2 マタイ16, 21-27
ペトロはイエスに「岩」として選ばれましたが、今日は厳しくとがめられました。イエスはペトロを追い払い、彼を「サタン」と名指ししました。ペトロは他の弟子たちが考えていたことを代表してイエスに告げたのですが、それはとんでもない考えでした。神の救いの計画を拒んだペトロは、神を捨ててしまったのです。と言うのも、ペトロの考えは、神の救いに反対するサタンの考えとなってしまっていたからです。ペトロと同じように私たちの考えも神のことを思わずに人間のことを思っている時、神の命の泉から離れ、命に導く神を否定する態度に陥ります。
自分の十字架を背負うことを拒むことは、失敗、苦しみ、病気、災いや親しい人々の死の内に不正や暴力、人生の不条理の勝利を認め、承諾することです。その態度の内にとても危険な悪魔的な力があります。主の後に従って十字架を背負うことを拒むことは、出会う困難にもかかわらず、神が私たちの内に生きる意志を支えることを拒むことです。言い換えれば希望と神に背を向けることです。
反対に十字架を背負うことは、神により頼むことです。つまりそれは、失敗や不幸、あるいは死の向こうに行き止まりがあるのではなく、広がっている道があることを信じることです。十字架を背負うことは、命は死よりも強いことを信じ、それを宣言することです。なぜなら、神は私たちの命であり、また私たちのために死に打ち勝ったからです。
預言者エレミヤと聖ペトロも神を捨てるという誘惑に陥りました。不正と苦しみに圧迫された預言者エレミヤは叫びました。「主の名を口にすまい、もうその名によって語るまい」と。幸いなことに、彼の心に燃え上がる火を注がれることで、神は預言者エレミヤを助け、慰めました。苦しみにもかかわらずエレミヤは委ねられた救いの使命を果たし続けました。自分の体験を模範にして、ずっと迫害された聖パウロは私たちが自分の心に神の思い出を抱くように勧めています。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」(参照:ローマ12,2)と。
神の眼差しの下に生きること、キリストの傍を歩くこと、自分の内に聖霊の燃え上がる火を受け止めることこそ、神の考えを心に思い起こすために大切なことです。「私たちと共にいて神は必ず救い出します」(参照:エレミヤ2.8)。ですから、私たちが出会う試練と苦難を通して、神は「命の主」であり、「燃え上がる救いの火」であり、またすべての苦しみを超えて永遠の喜びに安全に導く神であることを体験して、宣言しましょう。
ペトロや弟子たちと同じ様に、救い主イエスについて間違った意見を持たないようにしましょう。イエスは神ですので、私たちの考え方を遥かに超えています。残念ですが、私たちは、ペトロを真似て自分を助けるために神は何をするべきか、どのように助けることができるかを神に教え、願い、納得させようとします。私たちは皆自然にそのようにしていないでしょうか。そのような自分勝手な願い方をやめて、むしろ、私たちが神のために何をするべきか、あるいは私たちと同じ試練と出会う人々のために何ができるかについて考えましょう。
すべてに逆らって、私たちが神にしっかり結ばれるための学びが必要です。すべての困難と試練に打ち勝つために、キリストと親密に生きる意志と望みを強くしましょう。神の救いの邪魔にならないように、神と共にすべての困難に打ち勝つことを日ごとに学びたいと思います。さらに、聖パウロと共に「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げる」(参照:ローマ12,1)ことを恐れないようにしましょう。これこそ、私たちのなすべき礼拝です。アーメン。